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島実蔵の商品先物十八番勝負

其の十 追敷銀(追証拠金)のルールは280年昔も今も同じ

帳合米の売買単位は100石(15トン)で呼び値の単位は1石です。敷銀(取引証拠金)の額は自由で仲買店(商品取引員)によって違いがありました。当時の米相場は銀40匁から110匁を高下し、平均すると銀60匁前後の時代が長く、敷銀は100石でだいたい30~45匁、0.5%~0.75%ていどでしたから、レバレッジ(テコの原理)でいうと130~200倍にあたるでしょうか。

いまと比べると非常に高い倍率ですが、多くがディトレードで、1日分の値動きの額を預かるだけで充分だったからです。翌日にまで建玉のまま残玉(夜越米)になった場合に、もしも損計算で敷銀切れだと追敷銀(跡敷銀)が求められ、未納だと建玉が処分(切付)されるところなど、現代の追証拠金制度とおなじですね。

キタノザウルス

口銭(手数料)は往復で5匁でしたが、翌日まで持ちこす「夜越米」は、別に持ち越し口銭2匁5分が必要でした。それが日仕舞い(ディトレード)が多かった理由のひとつになっています。

現代は持ち越し口銭のルールはありませんが、当時は一日が終ると多くの建玉(注文)は清算されました。買ったものを転売するのを「売埋め」、安くなると予測して売ったものを買い戻すのを「買埋め」といい、端銀(はぎん=差金)の清算が儲けだと、天満や堂島の新地で遊んで「ドンチャン騒ぎ」をする投機家が多かったようで、それが現在の大阪の盛り場「北新地」の起こりです。

島実蔵には敷居の高いネオン街ですが、JR北新地駅に米俵を背にした人形「キタノザウルス」が笑っていますし、駅のホームに描かれている象徴(マーク)が稲穂なのも、ここにおコメの先物取引所があったからです。

其の十一 それは先駆的で革命的な事業でした

1990年のノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学マートン・ミラー博士は堂島米会所のことを次のように語っています。

「先物市場は日本で発明されたもので、コメの先物市場が大阪の真ん中ではじまりました。現代的な取引制度をもった世界最初の先物市場で、現代の先物市場がもっているすべてを完備していました。1730年くらいに始まったと思っていますが、シカゴ商品取引所(CBOT)よりも120年近くも前のことで、それは先駆的で革命的な事業でした」(NHK『マネー革命』より)

先物取引はもともと「つめかえし(保険)」のためのヘッジ市場ですから、売買するおコメは建前にすぎず、差金の受け払いだけで終了していました。現代では物流機能が加わって、契約した月(限月納会日)まで反対売買をしないままでいると実際の受渡しをすることになっていますから、金の先物取引で街の貴金属店よりも安く金塊インゴットを手にすることが可能です。反対に、せっかく安く手に入れた金塊なのですから、市中の「金買いショップ」で売るよりも、高値のときに先物で売っておいて納会日に「現物を渡す」ことも可能になったのです。

ちなみに、江戸時代の市場で活躍した仲買人(現代の商品取引員)たちは、自己の投機だけをする「思惑師」、顧客からの注文を受けて取引をするブローカー、売値と買値を示してマーケットメイクをする「太刀(たち)打ち」とよばれるフロア・トレーダーなどがいましたし、走り坊という米国のランナーにあたる少年たちもいるなど、それはそれは華やかな市場でした。

現在、北新地にあるANAクラウンプラザホテル大阪(旧大阪全日空ホテル)の川岸が寄り場の中心で、稲穂をもった子供の像と「堂島米市場跡記念碑」がその面影を伝えています。

堂島米市場記念碑
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